治承寿永の乱
治承4年(1180年)8月17日に兄頼朝が伊豆で挙兵すると、その幕下に入ることを望んだ義経は、兄のもとに馳せ参じた。秀衡から差し向けられた佐藤継信、佐藤忠信兄弟等およそ数十騎が同行した。義経は富士川の戦いで勝利した頼朝と黄瀬川の陣(静岡県駿東郡清水町)で涙の対面を果たす。頼朝は、義経ともう一人の弟の範頼に遠征軍の指揮を委ねるようになり、本拠地の鎌倉に腰を据え東国の経営に専念することになる。
平氏を破り、京を支配していた源義仲と頼朝が対立。寿永2年(1183年)に範頼と義経は大軍を率いて近江国へ進出した。翌寿永3年(1184年)正月、範頼と義経は宇治川の戦いで義仲を討ち取り、頼朝の代官として入京した。
この間に平氏は西国で勢力を回復し、福原(兵庫県神戸市)まで迫っていた。義経は、範頼とともに平氏追討を命ぜられ、2月4日、義経は搦手軍を率いて播磨国へ迂回し、三草山の戦いで夜襲によって平資盛らを撃破。範頼は大手軍を率いて出征した。2月7日、一ノ谷の戦いで義経は精兵70騎を率いて、鵯越の峻険な崖から逆落としをしかけて平家本陣を奇襲する。平氏軍は大混乱に陥り、鎌倉軍の大勝となった。上洛の際、名前も知られていなかった義経は、義仲追討・一ノ谷の戦いの活躍によって歴史上の表舞台に登場する事となる。
一ノ谷の合戦後、範頼は鎌倉へ引き上げ、義経は京に留まって都の治安維持にあたり、畿内近国の在地武士の組織化など地方軍政を行い、寺社の所領関係の裁断など民政にも関与している。元暦元年(1184年)6月、朝廷の小除目が行われ、頼朝の推挙によって範頼ら源氏3人が国司に任ぜられたが、そこに任官を願っていた義経の名は無かった。8月6日、義経は三日平氏の乱の対処にあたり、頼朝の推挙を得ずに後白河法皇によって左衛門少尉と検非違使少尉(判官)に任官し、従五位下に叙せられ院への昇殿を許された。鎌倉には「これは自分が望んだものではないが、法皇が度々の勲功を無視できないとして強いて任じられたので固辞する事ができなかった」と報告。頼朝は「意志に背く事は今度ばかりではない」と激怒して義経を平氏追討から外してしまう。8月、範頼は大軍を率いて山陽道を進軍して九州へ渡る。9月、義経は河越重頼の娘(郷御前)を正室に迎えた。
『ウィキペディア(Wikipedia)』引用
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